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2023/07/03 13:31

今回はアルタークが取り扱うメーカー
「レーマン」の陶器についてお話ししたいと思います。


 

「レーマン」の窯元はドイツとポーランドの境をまたぐ
「ラウジッツ」という歴史的な名がある地域の
ドイツ国内側にあります。


このラウジッツという地域の南部は
「オーバーラウジッツ」と言われ、
レーマンの窯元もこの
オーバーラウジッツに位置付けられるのですが、
ここには100年以上も前から続く陶器製造の伝統的な技法の
「スポンジ技法」というものがあります。




職人さんが顔料をスポンジ(海綿)で作ったスタンプにしみ込ませ、
それを押していく方法で描いています。(筆を用いる時もあります。)
台を回しながら一つ一つの陶器に
連続してスタンプを押していく作業はとても手間がかかりますが、
だからこそ生まれる唯一無二のハンドメイドの温かみが
この陶器の特徴とも言えます。




長時間高温で焼き上げるのもこの陶器の特徴に上げられるのですが、
そのため割れにくく耐久性があり、
オーブン、電子レンジ、食洗機に入れても大丈夫です。

 

この陶器は、
「ブンツラウアー陶器」

という名でも知られています。


理由はこのオーバーラウジッツのすぐ近くにある
陶器で有名なポーランドの街「ボレスワヴィエツ(Bolesławiec)」
のドイツ語名が「ブンツラウ(Bunzlau)」で、
この地方では昔から陶器作りに適した土が取れたので
すでに14世紀頃から陶器製造が盛んになり、
ここを中心とした地域で
後にこの伝統的な技法の陶器が発祥したからです。


14世紀頃に陶器製造が始まった頃は、
この地域の陶器の表面は茶色一色の塗りで、
主に農家で使う壺や瓶などが作られていたそうです。


19世紀の初め頃から、
このポーランドの街「ボレスワヴィエツ」のあるシレジア地方は、
プロイセン王国の占領下になったため
フリードリヒ2世(プロイセン王)によりドイツ化政策がとられ、
ボレスワヴィエツの街はドイツ語名の
「ブンツラウ(Bunzlau)」という名で呼ばれるようになりました。


この時代にこの王の保護下で更に盛んに陶器が生産されるようになり、
食器作りにも力を入れるようになりました。


他の地方の美しい陶器との競争に勝つため、
白地に鮮やかな色合いの陶器が開発されていったそうです。


19世紀末になると、
フランスの「アール・ヌーボ」にあたる
「ユーゲント・シュティール」という芸術動向がドイツでも始まり、
前衛的でモダンなこの芸術の流れにも乗り
現在の「ブンツラウアー陶器」
発展した可能性もあるのかもしれません。


彩色に独自の技法が用いられる様になり、
スポンジ(海綿)を削って作ったスタンプにインクを浸し、
陶器の表面に押して柄を描くという方法が生まれました。


色は濃いブルー、
柄は模様や曲線の組み合わせによる

幾何学的なデザインが考案され、
ドット柄やクジャクの目の柄が代表的です。




しかし第二次世界大戦でのドイツの敗戦に伴い

「ブンツラウ」はポーランド領となり、
街の名前もポーランド名の「ボレスワヴィエツ(Bolesławiec)」となりました。
大戦の終盤にはこのあたりは激戦地となり、壊滅的な被害を受けました。
窯は相次ぎ閉鎖となりましたが、
戦後に再建され、同じ土地で陶器作りが再開されたり、
ここの職人たちが各地に散らばり、

逃れた先で窯を再開することになりました。


今現在のポーランドの街「ボレスワヴィエツ」地域で作られる
「ブンツラウアー陶器」は
今日のポーランドの陶器を代表するため、
「ポーリッシュポタリー」とも呼ばれ
日本でも馴染みのある方がいるかと思いますが、
アルタークで取扱のある
「レーマン」の陶器は
「ブンツラウアー陶器」の技法と呼ばれる
「スポンジ技法」を用いていても
ドイツのラウジッツで作られるため
「ポーリッシュポタリー」とは異なります。


「ブンツラウアー陶器」は元々
プロイセン王国のドイツ化制作の中で生まれ、
同時並行でドイツのラウジッツでも発展していったため、
正確には「レーマン」の陶器は「ラウジッツ陶器」という
孤立したカテゴリーに当てはまることになります。


そんなポーリッシュポタリーと似ているようで
また一味違う魅力のある
「ドイツのブンツラウアー陶器」である

「ラウジッツ陶器」をレーマンの食器を通して
日本の皆さまにもお届けできたらと思います。

 

 

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